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ヤマの生活

「一山一家」

炭鉱には「一山一家(いちざんいっか)」という言葉があります。そのヤマで働く人すべてが家族であるという考え方です。炭鉱で働いているお父さんだけでなく、家族を含めた全員がそのヤマを構成する一員として、強い連帯意識を持っていました。


もともと炭鉱ができたため街が開かれたような場所で、現在のように通勤にマイカーを使用することなど考えられなかった時代、24時間操業の炭鉱では、従業員を職場の近くに住まわせる必要がありました。そこで、石炭の生産施設の周辺を取り巻くように炭鉱住宅と呼ばれる従業員の社宅が建設されました。このような非常に狭い空間に職住が近接するという炭鉱独特の濃密さが、「一山一家」という意識を育んだと言えます。

 


ヤマの暮らし

炭鉱はきつい労働の一方で、非常に福利厚生が整っていました。住宅だけでなく、水道や電気、燃料の石炭もすべて会社から支給されていました。また病院・診療所や、映画館・運動場などのレジャー施設なども会社が独自に設置していました。


炭鉱の労働は一日3交替制です。炭鉱によって異なる場合もありますが、およそ7時入坑の一番方(いちばんかた)、15時入坑の二番方、23時入坑の三番方です。三番方のお父さんは昼間休んでいるので、子どもたちは大きな声を出して遊ばないようにと、お母さんに注意されたものでした。


従業員が住んでいた社宅(炭鉱住宅)は、従業員の階級により区別されていました。管理部門に勤務する「職員」の住宅は、比較的環境の良い場所で間取りも広く取られていました。これに対して現場で作業する「鉱員」の住宅は、水道・トイレ・お風呂が共同の長屋タイプのものが多いなどの差がありました。

 


ヤマの文化

長い冬が終わりようやく春が訪れる5月、炭鉱には欠かせない祭り、「炭山祭り(山神祭(さんじんさい)とも言います)」が行われます。神社のおみこしが各地区を練り歩き、ヤマの安全を祈ります。会社も学校も休みとなり、ヤマのまちは大変賑わいます。


三笠の炭鉱から生まれたと言われる「北海盆唄」に代表されるように、盆踊りも炭鉱の楽しみな行事の一つです。


炭鉱まちには家族を含めて多くの人々が住んでいたため、繁華街は大変賑わっていました。商店は買い物客であふれ、飲食店には仕事を終えた炭鉱マンが多く繰り出しました。映画は東京と同時に封切られ、大相撲の巡業や人気歌手の公演も頻繁にやってきました。テレビがいち早く普及したのも炭鉱でした。


炭鉱では、会社ぐるみでスポーツや文化活動が盛んに行われていました。スキーなどの競技で有名選手を輩出したり、炭鉱対抗のスポーツ大会や地域の運動会なども行われていました。また、数万人の人口に支えられていた文化活動では、美術、文芸、書道、華道、茶道、日本舞踊など数え切れないほどの文化団体がありました。北海道の炭鉱まち出身の芸術家や俳優なども大変多く活躍しています。中には、画家の畠山哲雄(北炭勤務)や作家の高橋揆一郎(住友勤務)など、炭鉱に勤務しながら芸術活動を行っていた人もいました。

 


                   

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